大阪府内のだんじり祭りで「やりまわし」中の横転事故が相次ぎ、男性2人が死亡、16人が重軽傷を負った。SNSで拡散した映像を機に安全性への批判が高まり、文化人類学的な視点から祭りが続く理由を論じた記事も出ている。スレでは、自己責任を重んじる擁護、強制参加や運営責任を問う批判、伝統の浅さを指摘する声が入り乱れた。
例年、マスメディアで話題になる祭りだが、今回は死亡事故が連続したことと、その凄まじい現場の様子を切り取った動画がSNS上で拡散されたことから、「安全性に問題がある」「人命軽視ではないか」といった批判の声が上がった。
報道によれば、横転はいずれも、勢いよく曲がる見せ場「やりまわし」の際に発生した。だんじりのバランスを取る役「たかり」を務めていた50代の男性などが下敷きになり亡くなった。だんじりの重さは約4トンだったという。
■参加者が「死の可能性を含むリスク」を引き受ける
起こった出来事だけを見ると、惨事そのものであり、人の営みである以上避けることができた点にのみ意識が向かいがちになるが、文化人類学的な視点からは、近代社会でありながらいまだ「祭り本来の法外な空間」を維持していることに対する単純な驚きがある。
「日常の法・秩序・安全規範が一時的に括弧に入れられる」「『やりまわし』という、明らかに制御不能になりうる行為が『見せ場』として肯定される」「参加者自身が『死の可能性を含むリスク』を引き受け、それを共同体の連帯や『男らしさ』『町の誇り』の証明に変換する」「観客もまた、その危険性をある程度織り込み済みで眺め、時に喝采する」――これらはすべて先の定義を満たす重要なポイントだからだ。
特に「たかり役」のようなポジションは象徴的で、「共同体の中心にあるシンボル(だんじり)に、自らの身体を直接預ける」行為そのものが、儀礼的な自己犠牲や共同性の確認になっている。死者が出ても「伝統だから」「神事だから」で継続される構造も、近代的なリスク管理の発想とは異質な、前近代的な価値序列が今に生きている証拠と言っていい。
■伝統的な祝祭の本質は、カオスの中へと身を投じること
かつて文化人類学者のヴィクター・ターナーが提唱した「リミナリティ(境界状態)」が示す通り、伝統的な祝祭の本質は、日常の規範や安全な秩序から一時的に脱出し、カオスの中へと身を投じることにある。また、社会学者のロジェ・カイヨワが以下に明快に論じているように、祝祭とは過酷な身体性や時に死のリスクすらも消費することで、平坦な日常を突破し「生」を再起動させる装置でもあった。
「祭り、長い幕間にたくわえられた富の浪費、法規と化した脱法規、仮面の力の伝染により逆転せられた全規範――それらによって眩量の共有は集団生活の紐帯、そのクライマックスとなる。それは社会の究極の基礎である。もっとも、社会はそれでもなお不安定なものである。
もし、こうした周期的爆発がなければ維持困難な、うっとうしく、あまり価値のない脆いつながり、それが社会というものだ。そのつながりをこのクライマックスは強化し、ふだんはほとんど全く個人的な心配事や家事やに気をとられている諸個人を、この周期的爆発が接近させ、結集させ、精神の交流をさせるのである」
(『遊びと人間 増補改訂版』多田道太郎、塚崎幹夫訳、講談社文庫)。
現代社会では、「死の危険性」が日常から徹底的に排除・管理されている。そうした環境において、数トンの木塊と一体になり、死と隣り合わせの緊張感の中で街を駆け抜ける行為は、参加者に対して極限状態における圧倒的な「生のリアリティ」と、他者との強固な連帯感をもたらす。「危険であるからこそ熱狂が生まれ、生の実感が立ち現れる」という根源的な心理メカニズムが、そこには働いている。
一方で、現代社会はあらゆる脅威を予見し排除しようとする「リスク社会」であり、個人の生命やコンプライアンスが最優先される時代になっている。この双方のギャップを著しく増幅させているのが、近年のSNSによる「可視化」である。ネット以前、だんじり祭りがはらむ過激さや事故のリスクは、地域共同体という閉じた文脈と独自の価値観の中で了解され、消化されていた。
しかし、SNSを介して痛ましい事故や過激な瞬間が切り取られると、その映像は地域固有の共通前提から切断され、「安全圏にいる不特定多数の視聴者」の日常的な倫理観のもとで評価されることになる。リスクを絶対悪とする外野(部外者)にとって、命の危険を許容する構造は「非合理的な狂気」と映り、強いバッシングを引き起こす動機となる。
続きは↓
https://news.yahoo.co.jp/articles/5a0f5bf3b35ef73429a7fe393c6ba0fb82d8b9c9
[東洋経済オンライン]
2026/10/13(火) 16:30
日本はただでさえ規制規制の息苦しい国なのにこれ以上規制を増やしてどうする
地元民は本当に納得してるのかな?
規制か存続かを住民投票で決めたら良いのに
住民投票で決めるとだんじりは盛り上がり方からみて多分存続希望多数
田舎の担ぎ手のいない軽トラ移動の神輿は全滅
同じ理論で幾らでも危険な仕事をさせられるだろ
業務上過失致死傷罪で逮捕者なんて過去に何人もいる
何度も警察から安全の指導が行われてるし、そろそろ関係者の逮捕と殺人罪の立件もあるんじゃね?
誰かが死ぬ可能性が高いと判っていて安全対策を全くしないのは、未必の故意にはならんのかね
コーナーで転倒して死者が出るのなんて今に始まったことじゃないし
安全対策を行う前提で許可を出してるだろう
届け出通りの安全対策をしていないから事故が起きたなら、警察より運営団体の責任だよ
危険な方が盛り上がるからな
どんどんエスカレートしてんだろう
交差点でドリフトして見物するのを警察が許可してるようなもんだわな
これで死んでもバカみたいとしか思えないわ。
アホなんこいつら?
ほんとアホです
カーブを高速でまわることに男の美学を感じてるんですよ
カーブも緩やかに曲がってる
高速で引っ張るチンピラなんか1匹もいない
スポーツでもなんでも時代と共に速くなるやろ?それと同じでは?
駅前パレードで順にお披露目したりテレビ取材来るようになったりとかでエスカレートしたとか聞いたわ
だんじり(地車)は昔、今よりもはるかに遅いスピードで曳かれていました。 現在のような全速力で駆け抜けるスタイルや、交差点を勢いよく曲がる「やりまわし」が定着したのは、戦後の高度経済成長期以降のことです。
昔のだんじりが遅かったのには、技術やインフラ、お祭りの目的そのものにいくつかの明確な理由があります。
• 戦後の道路舗装と拡幅: 戦後、道路がアスファルトできれいに舗装され、道幅が広がったことで、ようやく「だんじりを走らせる」環境が整いました。
• パレードの開始(1963年): 観客に見せるためのパレードが始まったことで、各町が「どれだけ豪快にやりまわしを決められるか」を競い合うようになり、高速化に拍車がかかりました。
このように、だんじりは時代の変化(インフラの進化)とともに、じっくり魅せる「静の祭り」から、迫力を競うスリリングな「動の祭り」へと変化していった歴史があります。
やり回しは昭和40年頃から出来た歴史らしいな
こんな浅い伝統でしぬとかアホくさw
昭和のヤンキーが始めたことや
ゆっくり曲がれば死なん
• 戦前:【安全】
道が悪く歩く祭り。警察の規制はなし。
• 昭和30年代:【大暴動】
道が舗装され高速化。警察の「走るな」に住民が怒り、機動隊と乱闘。
• 昭和43年:【手打ち】
「警察は口出ししない」「事故は住民の自己責任」という密約が成立。
• 昭和50年代~現在:【黙認】
警察は交通整理だけを行い、危険な走り方はスルー。
住民?も慌てて目を覆ってたからなぁ
s://video.twimg.com/amplify_video/2108781153218179072/vid/avc1/1080×1920/vox2-p6PoDSkWX4A.mp4
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神輿をどかして遺体を見た途端にみんな静かにハケてるから頭部とかぐちゃぐちゃだろうな
ガチでやばいとリアクションが静かなんだよな
キャーキャーにはならない
あんな漫画みたいに子供を「見ちゃダメ!」と奥に引っ込ませて窓閉める光景、中々リアルで見れないよな
お子さんがガッツリ見てなきゃいいけど…それこそどこぞの誰かのPTSDとは比べもんにならないレベルのPTSD抱えちゃう…
トラウマになる
一家揃ってだんじり死ぬほど嫌いやで
子供の頃からの友達もみんな同じ
でもだんじり止めろなんて言おうものなら
仕切ってる町内会の青年団や反社まがいの輩どもに
どんな嫌がらせされるかわからんから黙ってる
そういう人達のほうが圧倒的多数やと思うわ
岸和田は一度やめたら二度と参加出来んらしいな
進学や就職で地元離れたらもうあかん
>>330
それはむしろありがたいことやろ
死ななくてすむ
逆だよ 死人が出た家は村八分までとはいかないが
あの家のせいでって一生言われる
最悪やな、死の危険性ある祭りに強制参加させられたうえに死んでも連中から恨まれるってどんだけw
屋台には安全柵も付けて。
急な方向転換と急発進級制動禁止。
熱中症対策に前日飲み過ぎや寝不足のやつは参加禁止。
建前でもコレくらいチェックしてからの自己責任だと思うわ
人死んで参加休止とかおかしい。
死ぬ前にレギュレーション違反で休止すべきだった。
スカイダイビングで死んでも文句が出ないのは誓約書書いてるからです
だんじりだって誓約書書いてたら文句なんて出ませんよ
そこら辺をなあなあにしてるから問題になるのです
低山でさえだんじりの何倍も人殺してる
登山はそれこそ個人で勝手にやればいいからな
まつりは個人でやってない
個人でやってるとか考えるのは浅はか
祭りやめろとは微塵も思わないが、人が死ぬ危険性があるなら安全を確保する明確ルールを作れとは思うな
だんじりで死亡した家族への保障
• 祭り用の保険から支払われる死亡保険金は一時金(1,000万円程度)であることが多く、今後の生活費としては足りません。
• 運営側に賠償金を請求しようとしても地域社会での孤立を恐れて裁判を起こせないケースが多々あります。
結果として、一家の支えを失った遺族は、突如として経済的困窮と孤立に直面することになります。
本人が納得していても、遺族や目の前の住民、参加を断りにくい人はどうなるのでしょう。伝統と安全の線引き、みなさんはどこに引きますか?
引用元:「下敷きになって即死」「現場は血まみれに」…2名が死亡《大阪・だんじり祭り》が人命軽視と批判されても続く理由
元記事:https://news.yahoo.co.jp/articles/5a0f5bf3b35ef73429a7fe393c6ba0fb82d8b9c9


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